ムッシュ・ド・パリは迷わない(2-1)

その二 この頃はやりのおとこのこ

 この世こそが地獄だ。これが、「吾郎・G・マクスウェル」の信念だった。十二まで日本で暮らしていたからこそ、無常観にも似たそんな信念を持つに至ったのかもしれない。無論、カトリックはそんな教えを説いてはいない。

 彼が鬼を……彼自身の呼び名で「グール」を殺すのは、単に復讐のためである。十二のときに家族は化け物に殺された。二十年たった今では「鬼」の仕業であったと判明しているが、当時はただの強盗殺人として片付けられた。身寄りがもともと少なかった吾朗は、アメリカ在住の親戚の勧めにより、国際養子縁組を受けた。縁組先は南部の厳格なカトリック夫婦で、受洗は避けられず、神学校に入れとの無言の圧力があった。南部ではアジア人が司教になることは難しいし修道士なんかまっぴらだ。吾朗が選んだ道は、従軍神父のアシスタントだった。

 軍の下士官となり、実際に兵士たちと関わり、上官である神父を護衛する。ハードな任務だ。移動ワゴンで傷だらけの荒くれどもが殺しそうな勢いで食ってかかってきたこともある。隠れゲイが夜這ってきたこともある。錯乱して上官神父に銃を向けてきた兵士の頭は躊躇せず吹っ飛ばした。出動していく車両の列に祝福を祈っていた折には、RPG-7のPG-7L弾頭が二人の真横をかすめていった。従事した作戦名は「Freedom of Iraq」。建前上の御旗は自由と解放。だが金持ちの息子なんかぜったいに最前線には来ない。貧乏人が食うために身ひとつを売り、ゴミみたいに死んでいく。この世は酷いところだ。酷いところにいるのが人で、酷いところだからこそ、信仰と赦しと葬送は必要だ。だから吾朗は平気だった。仲間からはそんな厭世感を諭されることもあったが、戦場は吾朗の性に合っていた。そもそも、神学校にいたときだって司教から色目を使われることがあったってのに、この世のどこに教義がある? ……ただ、上官は立派な男だった。自らに襲いかかった兵士の亡きがらを抱いて涙を流し、心のこもった弔いをした。そんなことが起こっても毎日野営地に出向いて、使い捨てたちと語らい、励まし、祈っていた。「あんなふうにはなれない」というのが従軍で得た真理だったが、任務自体には満足していた。こういう者は守られねばならない。

 自衛隊特殊作戦群から接触があったのは例の「自衛隊イラク派遣」の引きあげ時だった。悪魔祓いに興味はあるかという日本語での言付けに、吾朗は即座に接触をとった。エクソシズムは教義に反するとカソリック教会が禁じているが、知ったことではない。こちらのプロフィールはとっくに調べがついていた。元は日本国籍であること、従軍神父アシスタントであること、神学校を出ていること、そして過去の一家惨殺が「鬼」によるものであったことなどから、使えそうな人材として目星がつけられていたようだ。報酬もよかった。訓練も学位取得もすべて特群が金を出してくれた。バチカンに見学にまで行かせてくれた。その時起こしたちょっとした事件のせいで破門され、手配までされてしまったが、化け物どもが殺せればそれで構わない。……かつて米軍でタッグを組んでいた上官神父は殉職したらしい。次に組んだアシスタントが俺より能なしだったんだ、というのが吾朗の持論だ。以来、陸自に飼われ、もとの姓であった篠埼を名乗っている。

 本中春樹に出会ったのは、彼の「初出動」の後だった。以前の志願者が壊れたという連絡を受けて三ヶ月後、天川二等陸佐に呼び出され、シノサキゴローは初めてその少年をドアの監視レンズから覗いた。私服は血まみれ、手には鬼切の名刀・安綱。監視おびただしい謹慎室でパイプ椅子に座り、鎮静剤を打たれて半死半生だった。物見遊山の気分で評する。
「これが今度のパートナーか? ずいぶん若いじゃねーか。特殊作戦群も悪だねぇ」
「適格数値は高い。初出動だというのに驚くべき手際のよさだ」
 天川はそっけなく答える。吾朗は腕組みして彼を見やる。
「ずいぶんぼんやりしてるじゃねーか。何かあったのかよ」
「……今回の『鬼』の外観はさほど変じていなかったからな」
 天川はそれ以上の情報を伝えない。寝ているのか起きているのかすら判らないその少年を、煙草片手に吾朗は眺めまわした。髪は短髪、ガタイは十七にしては大したものだ、そしていかにも堅物そうだ。そのうち少年が目を覚ました。天川がドアを開ける。吾朗も入って気さくに挨拶した。
「おはよーさん♪ お目覚めだな、お姫様」
 その少年は、目を薄く開いてまず天川を見た。自衛官の制服姿の天川は、穏やかな声で紹介した。
「しばらく君の面倒を見てくれる。シノサキという男だ。成りは問題だし、性格も問題だが……うまくやってくれ」
 吾朗はあまりの紹介に顔をしかめる。青少年を世話するなんてさすがにまっぴらだ。
「……おい、冗談じゃねーよ。何だ、『面倒を見る』って」
「彼はまだ十代だ。保護者が必要だろう」
「へえ、天川二等は、誘拐してきた大事な鬼斬りマッシーンだろうが、可愛い純な王子様だろうが、構わずロクデナシに預けちまうわけか。傑作だな」
 少年は吾朗の茶化しにも動じた気配は見せず、天川に訴えた。
「……ひとりでやれる」
 天川二等陸佐の顔が曇る。
「だがな……君。もう君は死んだことになっているんだ。戸籍はない。身内には頼れない。私の家で暮らすのは嫌なのだろう? 何もこの男と同居しろと言ってるわけじゃない。面倒を見てもらわねば。寂しいだろうし……」
 天川は表向き少年を気づかった言葉を吐いている。吾朗は鼻白んだ。青少年ってやつはそういう嘘の匂いを敏感に嗅ぎつけるもんなのだ。習い事から帰ってみたら家族全員噛み砕かれて血の海に沈んでたってのに、ただの強盗殺人と片付けられた時の俺みたいに。
 それはそれとして、さて、この少年は一体何をされたのかね? 吾朗は興味が湧いてきた。少年兵の洗脳手順としては、最初に肉親でも殺させ、今までの人生を捨て去らせ、殺しを覚えさせてから、新たに生きがいを……無論、大人に都合のよろしい殺しという生きがいを与えてやるというのがオーソドックスだ。新しい安綱適格者の服は見事に血でぐっしょり、乾いた後も鉄くさくてかなわない。心中しようとして鬼に取り付かれた不幸な一家の惨殺でもさせられたかな。吾朗は無責任に想像する。
 少年は吾朗を見て、言葉なく頭を下げた。吾朗も笑って好意を投げておく。ガキの面倒を見るなんぞごめんこうむりたいが、これからのパートナーでもある。アホなガキ大将とかなら速効でパシリ扱いするところだが、こいつはそんな柄じゃあない。子犬というよか、狼になりかけという感じ。いざとなったときに敵意をもたれていると厄介だ。天川が説得を続ける。
「この男はシノサキゴローと言う。年齢は二十七歳、独身……でよかったかな」
「まあ、一応な」
「カソリックの神父さんだ。成りはこんなだが……それなりに親切な男だ」
「……」
 少年は吾朗をじっと観察している。まさかその紹介をされるとは思わなかった。修道士にもなっていないし姦淫しまくってるし人殺しだってやったことがあるしそんな資格はないのだが、天川がカトリック教会の細かい仕組みを熟知しているとも思えない。仕方ないのでシャツの裏からロザリオを出してちらりと見せた。少年は天川に訴えを続けた。
「新條と暮らす」
 天川が腕組みをして溜息をつく。
「しかし、十代で同棲というのもだな……彼女は妖怪だし、たしかに寂しくはないだろうが道義的に……」
「おい、何の話なんだよ?」
 きなくさくなってきて、吾朗は尋ねた。天川が事情を説明する。
「以前の志願者は『安綱』の力に呑まれて鬼化した。通り魔状態でな……お前を呼ぼうとしたが、間に合わなかった。そこに通りかかったのがこの少年だ。『安綱』はこの子を選び、この子は見事に大役を果たしてくれた。その際彼と共にいた少女というのが……」
 天川は言い淀む。吾朗が先を促すと、短く答えた。
「その、妖怪だったんだ」
「グールかよ、燃やして塵に戻しちまえ」
 嘲るように言った吾朗を、少年はぎろりと睨みつけた。しかし、たかが十代のガン付けにビビる吾朗ではない。平然としていると、少年はうつむいて力なく言った。
「そんなことをするようなら、この刀で自害する」
「……控えてくれ」
「何だよ、グールにたぶらかされてんのか? こりゃあまた……」
 長くないな、吾朗は続きを呑みこんだ。人外のあやかしの類など、彼にとっては唾棄すべき獲物以外の何でもない。少年はやぶからぼうに聞いてきた。
「あんた神父か」
「そうだぜ、まあ……一応?」
「お祈りとか……するのか」
「朝昼晩メシと寝る前にな。なんだ、教えて欲しいかよ?」
 破門されてる身としては、祈りなんか日曜にもめったにしないのだが、嘘をついておいた。少年はうなずく。その横顔に、初めて御しやすそうな若い迷いが浮かんだ。交流させるチャンスと見たか、天川は素知らぬふりで席を外す。黒いシャツからロザリオを取り出し、膝立ちにしゃがみ、十字を切る。
「父と子と聖霊のみ名によって。アーメン」
 ロザリオの祈りを唱える。数珠を繰りながら、真剣に見つめ返す少年の目をのぞきこみ、言葉をつむいでいく。一つずつ花びらをつなぐように。
「天主の御母聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終のときも祈り給え」
 一環が終わると、吾朗は静かに瞑想した。長々しい祈りだが、本物らしかろう。少年は黙っていた。目を開けると、語り始めた。
「同い年くらいだった。男で……受験勉強と運動部の体罰に耐えかねたらしい」
「若くて精力有り余ってると憑かれやすいんだよ、それでいて世界も狭いしな」
「……化け物じみてもいなかった、ただ爪が長くて……こっちの首を絞めてきた」
「完全に変化するとややっこしいぜ?」
 初出動の獲物のプロフィールを教えたのはわざとだろう。変化が完璧でないうちにやらせたのも計算づくだろう。セオリー通り、自らの手を汚すことをまずは覚えさせたのだ。少年はぼそりと言った。
「……ひとごろしになった」
 吾朗は黙っていた。そう、鬼は元・人間だ。殺人の罪なんぞ、戦場ではありふれているが、それでも気に病む奴はいる。まして平和がまがりなりにも日常であるこの日本では、その罪に耐えていける者は少ない。「安綱」を操った男はみんな最後には壊れてしまう。法律上では殺人犯になるわけなので、戸籍剥奪、経歴抹消のち、偽名で生きていかねばならない。両親がいて、家族がいて、友人がいて、毎日があって、その全てをあっさりとチャラにできる人間というのは、平和な日本では少ないのだ。それを望む者もまれにいるが、たいていはきな臭い事情持ちだ。それでいて仕事は過酷。最終的には刀の力に溺れて暴走するか、ミイラ取りがミイラになるごとくに「鬼」と化してしまう。今回の適格者が十代なのは、おそらく年齢が浅ければ上手く洗脳できるという企てだろう。天川は人格者だが、大義のためとなれば情を凍らせる。
 吾朗は期待されているであろう職務に忠実に、労わってやった。
「そうだな……、ひとごろし。俺とおんなじだ」
「これから仕事はあんたと組めと言われてる」
 吾朗はうなずいた。近接戦闘向きの妖刀に、援護の銃使い。チームのほうが効率は上がる。だが、このシノサキ・ゴローが安綱適格者と組む本当の理由は別にあった。戦闘時および平時に、適格者が刀に呑まれた場合の処刑係である。その力を得るために、吾朗はバチカンで聖遺物を盗んで来た。真実は巧みに隠し、握手のために手を差し出すと、少年は強く握り返してきた。少しすっきりした顔つきで宣言する。
「……あんたのことも好きになりたい」
 すっとんきょうな言葉に、吾朗は目を丸くする。
「おい……そりゃあ俺は色男だがな、こんなに急に告白されるなんて困っちまうぜ」
「ちがう、そういう意味じゃない」
 少年は慌てることもなく冗談を否定し、続けた。
「新條も……あんたも、天川さんも……これからの支えにすることにした、そうすれば耐えていける」
「そりゃまたずいぶんな覚悟だな。鬼斬りマシーンの仕事はハードだぜ?」
「知ってる」
 右手に握った安綱をけがらわしいもののように睨んで、少年は答える。
「……だから、これから会う人はみんな大事にしたい。どんな小さなよりどころでも……単なる仕事仲間でも。なんにもなかったら多分、ああなるんだ。俺が殺した最初の男みたいに」
「ほう」
 吾朗は感心したが、褒めなかった。体つきとしては背も高く厚みも十分だが、骨格のところどころはまだ伸び切らない鋭さを残している。手際も見ていないから、強さのほどはわからない。それでも、吾朗ははじめて自分から少年に尋ねた。もしかしたら同情しているのかもしれない。
「名前は?」
「さかもとはるき……いや、本中春樹」
 それが天川から与えられた偽名なのだろう。吾朗は笑ってロザリオをしまった。
「オーケー、相棒どうし仲良くやろうぜ? ハル」
 ハルになった坂本晴樹は、無愛想にうなずいた。

 ススキダ・カイが住宅街を歩く。派手すぎないTシャツ、半袖のシャツ。右手にはずっしり中身の入ったスーパー袋。すっかり夏の装いだ。国道から脇道に入り、暑さに閉口しつつ、ハルのアパートに顔を出す。チャイムを鳴らすと、出たのは同居人こと白狐の変化・新條だった。十四・十五の少女の姿に、季節をガン無視した冬服セーラー服。いつもとまったく変わらない装いで、カイをじっと見据える。
「……ハルは剣道の練習」
「あと二時間で戻りですよね? 早く準備しちゃいましょう」
 新條はこくんとうなずいた。お邪魔します、といちいち断って、カイがハルの部屋に上がる。スーパー袋からホットケーキミックスに、無塩バターに、キャロットジュースをどんどん出す。
「粉、計って混ぜましょう。バターはレンジで溶かして……炊飯器空いてますよね?」
 新條はからっぽの炊飯器を開け、カイに見せる。カイはうなずき、真剣にキッチンスケールで計りながら、粉も砂糖もバターも卵もキャロットジュースも、全部いっしょくたで混ぜまくる。釜に入れて炊飯。
「レシピによると、これで放置すればいいはずですが……ケーキのくせにあっけないなあ」
 物足りなそうなカイに、新條が申し出る。
「手紙、書きたい」
「ああ……いいアイディアですね、バースデーカード買ってきましょう。新條さんは筆ペンで書きますか?」
「そのほうがいい」
 カイは身軽に駆け出して、近くのショッピングモールで花束とカードと筆ペンを見繕い戻ってきた。ちゃぶ台で二人、ちまちまとメッセージをしたためる。
「新條さん、縦書きですか」
「横は慣れないから」
「さすが、渋い。僕はドイツ語で書いてみようかな。せっかく習いましたし……」
「ドイツ語って、何」
「日の本じゃない国のことばです。そっか、八百年前にはない概念でしたね」
 その台詞を聞いたとたん、新條は不機嫌そうにカイを睨んだ。カイが慌てて謝る。
「……すみません、女性に年齢の話は禁句でした」
 新條はむっつりと黙っている。
「その……ごめんなさい」
「分かればいい」
 ハルに似たぶっきらぼうな物言いに、カイは苦笑した。話をはぐらかす。
「今日はハルさんのお誕生日ですから、それに免じてお許しください」
「後で、油揚げみっつ。スーパーのは駄目」
「……申しつかりました、新條稲荷様。それにしても」
 カイはスマートフォンを取り出して、溜め息をつく。
「吾朗さんからは返信もなしですか……」
 画面をなぞりつつ、残念そうだ。
「謹慎ももうすぐ解けるし、参加者は多いほうが楽しそうなのに」
 新條はきっぱりと断言する。
「あの人はどうせ悪だくみばかりする。私がいる限り勝手はさせない。ハルは護る」
「危ないですよ、呉のご本地からは大分離れてるんですから……下手すると祓われちゃいます」
 カイは書き終えたカードを見直し、溜め息をつく。
「天川さんにでもメールしてみますか?」
 メールを打っても、仕事中は返事しない主義の天川相手では見込みが薄い。メール画面を立ち上げながら、カイがぼやく。
「まったく、吾朗さん大人げない」
「……言う甲斐なし」
 筆ペンをしゃなりと構えた新條の正論に、カイもうなずいた。

 しかし、吾朗は果たしてハル宅の近辺にいた。ハル宅より徒歩十五分程度のコンビニで煙草を買いだめ、スポーツ新聞を冷やかす。
(お誕生日会とかふざけるなよ、ここはアメリカじゃねーんだよ! ガキでもねーし)
 胸の奥で毒づきつつ、コンビニ前で煙草を吸いつつ、キョロキョロと辺りを伺う。ハルが通りすぎやしないかと気が気でないのだ。カイや新條がくさすだけはあるダメな大人っぷりである。間が悪くちょうどハルが自転車引きつつ通りかかった。あきれ顔でさとされる。
「……禁煙したんじゃなかったのか?」
「どうだっていいだろ! お前があの女狐と別れりゃいますぐきっぱり止めてやるよ!」
 ハルは頓着せずに自転車を止める。スポーツドリンクを買ってきて、豪快に飲み干し、備え付けゴミ箱に捨てた。そして先回りして話題にしはじめる。
「今日は俺の誕生日だ」
「ハッピーバースデーでも歌えばいいかよ?」
「別にいい。どうせデータ上は一月一日に自動的に歳をとるんだ」
「……」
 二十二歳おめでとう、と言うのもたしかにバカバカしかった。カイとあの人外女狐はケーキやら花束やら用意して誕生祝いをするらしい。妖かしの類と同席なんて反吐が出るから、吾朗は絶対に行く気にならなかった。ハルがこのまま家に帰るとする。女狐とカイの子どもじみたもてなしにもそれなりに喜ぶだろう。表情にこそまともには出さないだろうが。ハッピーエンド。自分は蚊帳の外。何だか気に入らない。
 ……誕生会はサプライズだ。ハルは二人が準備をしていることすら知らない。カイからは秘密にしろとの警句と、参加しろとの誘いのメールが何回も入って来ていた。ばらしたって結果は同じだ、自分は行かない。ハルは女狐と一緒。吾朗はもう一本煙草を取り出して、提案してみた。
「……まあ折角のめでたい日だし、おごってやろうか?」
「そうか。ありがたい。ファミレスまで引き返すか」
「……二十歳すぎた誕生祝いでファミレスもねーだろ。カフェバーだ。何杯でも飲んでいいぜ」
「……酒は好きじゃないんだが」
 ハルはそうつぶやきつつも、歩きだした吾朗にチャリを引き引きついてくる。ざまあみろ、女狐。吾朗は胸の内で舌を出した。

 駅前まで戻るとビル二階に小さなカフェバーがある。習志野駐屯地付近は千葉県でも都市部とまでは言えないが、薄暗く、ジャズがかかって雰囲気はこじゃれ、カウンター席に銀のスツールが並ぶようなカフェバーも、一応存在しているのだった。吾朗は常連である。ハルも何度か連れてきているため、勝手は判っている。カウンターに陣取ると、なじみのマスターと軽口で挨拶した。吾朗はハルを親指で指して告げる。
「こいつ、今日誕生日なんだよ」
「ああ、じゃあ一杯タダにしとこうか?」
 マスターのサービスに、ハルは無言で頭を下げる。甘党だけあって注文したのはカシスオレンジだ。吾朗はコロナビールにする。半切りライムをきちんと瓶に詰めてくれるあたり、気が利いている。
「乾杯しよーぜ。……ハルの新たなる一年に、主よ、祝福あれ」
 ハルはこくんとうなずき、グラスと瓶を合わせてくる。ガラスが涼しく響きあって、吾朗はビールをラッパ飲みした。真夏の夕方はまだ明るい。すぐ廻るほど強くない軽いアルコールが心地よい。剣道の練習の様子や、最近買った服なんかのとりとめない話をしていると店の扉で鈴が鳴った。
 戸口に現われたのは、すらりとした美人だ。ストレートの髪をきれいにまとめ、紺色のサマーセーター。九分丈のグレーのパンツで、シンプルな装いだがしゃれている。顔立ちは可愛らしいというより爽やかで、化粧もそれほど濃くない。鎖骨に光るネックレスはシルバー。吾朗はちらっと確認だけして、ハルと飲み続けた。女性はマスターに挨拶し、一つ離れたスツールに座った。マスターは女性と気さくに話しはじめた。見たことのない顔だが、何度か来ているらしい。
 二杯目はミントジュレップにした。ハルに飲ませ、味を覚えさせるとハルも続けて同じのを注文した。清涼感が気に入ったようだ。飲み終えたころに、吾朗はようやく隣の女性に目配せした。女性もにこやかに会釈。吾朗はさっそくマスターにしたり顔で尋ねる。
「しばらく来ないうちにずいぶん綺麗な常連がついてたんだな?」
「吾朗ちゃん、他の店に浮気してたんじゃないの?」
 マスターは軽妙に言い返す。ご無沙汰だった理由は、単に初夏の女子高生事件で謹慎処分になっていたためだ。自衛隊駐屯地に監禁されて退屈で死にそうだった。ハルはもちろんそんな事情をばらすような無粋な男ではないし、黙ってミントの葉をつまんでいる。
「……いや、まあ、色々ともめててな」
「また女がらみでしょ? 弥栄子さん、この人には気を付けたほうがいいよ。美人だろうが何だろうが手当たり次第なんだから」
 マスターはさすがプロだ、女性にも話をふり、場をひとつにまとめてしまった。弥栄子と呼ばれた女性は楽しげに笑う。そして答える。寡黙とかお高くとまったタイプではないようだ。
「私、コブつきです。いまさらそんな」
「……再婚を前提としないお付き合いならいくらでも」
 吾朗も冗談めかして返した。さざ波のような笑い。本気なんかどこにもない、心地良いやりとりだ。ハルも質問する。
「お子さんがいるのか? そんなふうに見えないが」
「いるんですよ。今年で中学二年生」
「……マジかよ。世の中って理不尽だな」
 吾朗の大げさな反応に、弥栄子は含み笑いをする。しかし、本当に十四歳の子どもがいるようには見えない。独身と言われても通るくらいだ。三十代ほどだろうから、生んだのはよほど早かったのだろうか。ハルも同じことを感じたらしく、続けて尋ねている。
「若いうちに産んで、ちゃんと育ててるなんて凄いな。尊敬する」
「きちんと育ってるかは自信がないけど。これからは私一人が責任もたなきゃいけないしね」
 ハルの感嘆に弥栄子は微笑んで、マドラーでグラスをかきまわした。ハルがすぐ生真面目に謝る。
「……立ち入ったことを聞いてすまない」
「いえ、いいんですよ。今日は私も千葉で初出勤だったから……お話できて楽しい」
 吾朗はそのままハルに会話を任せる。自分が根掘り葉掘り身の上を尋ねるよりも好都合だ。ハルは無口だが、過剰に人見知りするような内気さはない。
「遠くから来たのか」
「九州から。離婚ついでに戻って来たの」
「そうか……ずいぶん遠くに行ってたんだな。千葉出身か」
「嫁いだ先が遠いと難しいものね。でも心機一転、頑張るつもり」
 ハルは真剣な顔でうなずいた。自らも故郷を遠く離れた身だ。親近感がわいたのかもしれない。そんなとき、ハルの携帯が鳴った。弥栄子に断り、フリップを開く。
「どうした?」
 ……吾朗もその隙に素知らぬ顔で携帯を取り出し、着信履歴を見た。カイから何回もしつこくコールがかかってきている。ハルの電話の相手はそのご当人のようだ。サプライズパーティのつもりだったのに主役のハルがいつまでも現れないので、郷を煮やしたのだろう。ハルは電話に応じている。
「カイ。どうした……今どこか? 今は吾朗と酒場にいる。 ?……代われ? 分かった」
 ハルがぬっと電話を差し出してきた。雲行きが悪い展開で気が乗らなかったが、初対面の弥栄子の前でみっともなくもめたくはない。仕方なく代わる。携帯の向こうから、カイが唾を飛ばさんばかりの勢いで攻撃してきた。
「吾朗さん! どういうことですか。パーティに来ないのは別にいいですけど、邪魔するなんて……三十越した大人のやることですか!?」
「あーあー、分ったよ……っつーか二十歳越した誕生日にパーティもねーだろ、アメリカじゃねーんだから」
「そういう問題じゃありません。ハルさんは回収します。遅くなっちゃったついでに、天川さんの家で盛大にやることにしましたから。もちろん吾朗さんは来なくて結構ですよ……ハルさんに代わってください!」
 声に刺が生えすぎである。かなり頭に来ているようだ。吾朗は半分以上聞き流してハルに変わった。ハルはカイの電話にいちいちうなずき、通話を切ると未練もなさそうに立ち上がる。
「飲み代はお前持ちでいいのか?」
「……おごるって言ったろ。しょうがねーよ」
「来ないのか」
「行くわきゃねーだろ? どうせあの女狐がいるんだ」
「当たり前だろ」
 ハルは突き放し、それでもカイのように来るなとまでは言わない。吾朗はやけになって言い募る。
「気持ち悪いサタンの使いと同席なんて死んでも嫌だね。俺と一緒にいろよ」
「好きにしろ」
 こんどこそハルは鼻白んで、カフェバーを後にした。吾朗はわかりやすく荒れる。マスターに勢い込んで三杯目を頼んだ。
「……ギムレット!」
「……まだ六時半よ? 『ギムレットには早すぎる』って名台詞も知んないの?」
「ふられてんだよ。ヤケ酒くらいいいだろ!」
「吾朗ちゃん、まだハル君に横恋慕してんの……」
 マスターですらあきれ顔だ。吾朗は違うと否定しつつも据わった目でギムレットを一気に煽る。甘ったるいけどぐっとくる強さだった。……ハルとの付き合いももう五年近くになる。そんなに保った安綱適格者はハル一人で、そんなに長いパートナーもハル一人だけだ。ガールフレンドは作れても、続ける気もなくすぐ終わってしまう吾朗にとっては、ハルは珍しく恒常的な関係を築けている貴重な人間だった。ハルはタフだ。十七なんていう不安定な年齢で鬼斬りマシーンにされたってのに、背筋をいつも伸ばし、人をまっすぐに見て、余計な口を叩かず、誠実で強い。どう育てればこんな奴が出来るんだと事あるごとに感心する。途中からカイが加わり、鬼討伐という仕事はあるにせよ、それなりの平和な生活が続いてしまっている。何よりもハルが「人間」でありつづけているおかげだった。
 自分でも言葉にし難いわだかまりを流すために、ギムレット二杯目を注文する。頃合いもぴったりに、弥栄子が口火を切った。
「お友達……帰っちゃいましたね」
「え? ああ……しょうがねーよ。恋人のとこに戻るんだと」
「弥栄子さん、こいつ本当に節操ないからね。ハル君にだけは一途だけどいつもこうだし……それでヤケになって女たらしこむんだから。仏心出さないほうがいいよ」
 マスターの再度の警告に、弥栄子は苦笑した。ひどい言われようだが、吾朗は否定もしない。
「まあ、何にせよ大変よね。私はもう少し一人でいようかな、子どももいるし」
 収まりそうになった会話の流れに逆らって、吾朗は即、口説きにかかった。
「そりゃもったいない。俺はハルにフラれまくって傷心だからな、再婚を前提としたお付き合いも考えるかもしれねーぜ?」
 もちろん冗談のようなものだが、完全に興味をもっていないと思いこまれるのは避けておきたい。子どもがいようがバツがついてようが、何より美人だ。弥栄子は食えない表情で吾朗をまじまじと見た。
「ふふ。でももう『そういう人』は絶対嫌」
 吾朗は細部に突っ込まず、不敵に笑み返す。ここが勝負所だ。
「マスターのネタを本気にするなよ。それに、男同士で肉体的なお付き合いなんかしちまったら縁が切れちまうかもしれねーだろ。始まりがありゃ、終わっちまうもんだ」
「そうね、男と女だって同じだけど」
 弥栄子の声はクールだ。吾朗を完全に否定はしていないが、態度はつれない。けれど、脈はまだかろうじて繋がっている。無視せずにさや当てしてくるのがその証拠だ。ここは潔く引いておくことにする。
「……マスター、勘定だ」
 吾朗は立ち上がり、弥栄子には笑みだけ投げてバーを後にした。

2

「主な攻撃方法は遠距離型。状況設定は屋内、単独行動中遭遇を想定。戦闘演習およびデータ取得が目的のためアドバイス以外の援護はありません。では、合図で始めて下さい」
 陸自特群超現象対策班・専用トレーニングルーム。壁には、衝撃対策と防音のためにウレタンが厚く貼られている。ただし正面一面だけは二重の防弾ガラス。床はコンクリートの打ちっぱなしだ。体育館ほどの広さで、あちこちにベニヤ板で障害物が立ててある。対峙するのはハルと吾朗。プラスチックゴーグルを装着したハルは愛刀・安綱を構え、険しい表情だ。互いの距離は10メートル弱、吾朗はゆらりと立っている。
 カイが「はじめ!」の声を上げるが早いが、ハルが安綱を振りかぶって突っ込んだ。とたんにアサルトライフルから弾が楽しげにひらめき、紅い刃が燃えるように光る。発砲許可が出ているのはペイント弾。興が削がれるが、エアガンを使えと言われるよりはましだろう。ペイント弾は安綱の作用吸収で勢いを失い、着弾する前に音を立てて床へ落ちてしまう。
「あれ、ハルはもう化け物になってんのか?」
 吾朗はほくそ笑んだ。妖刀・安綱の力を解放したのなら効果はたったの三分、180秒後には妖刀は力を失い、ハルは単なるちょっと鍛えた22歳だ。後ろへ飛びずさり、距離と時間をかせぐ。凪ぎ、付き、それに大上段からの袈裟切り。鬼斬りの怪力がこもった重い斬撃を、吾朗は踊るように皮一枚で避ける。黒コートを跳ねあげて、胸ポケットからアトマイザーを取り出した。生身はちょっと危ないだろう。
 芳香噴射。マグダラのマリアが主に注ぎかけた香油の精製版だ。とたんに目の裏が熱くなり、頭の後ろがひりつくように焦げて、脳が冴えてくるのを感じる。同時に身体がふわりと軽くなり、まるで重力の枷から外れたようだ。ノルアドレナリン、ドーパミン、エンドルフィンが強制的に過剰分泌されて、肉体に掛かっている枷が全て外れる。跳躍するが、ハルはすでに鼻先まで肉薄している。構えは胴だ。
「……捕えた」
 ふわりと跳び上がった吾朗の腹に、峰での横殴りがきれいに入った。ジェットコースターにでも乗ったみたいに弾き飛ばされて、ウレタン壁に叩きつけられる。脳内麻薬のおかげで痛みはさほどない。カイが指示を飛ばす。
「ハルさん、今です、全力で突っ込んでください!」
 ハルは肩からそのまま突撃してくる。安綱の重力操作でブーストされるせいで、飛行に近く、弾のように速い。吾朗は慌てずにベニヤ板を頼りに立ち上がる。ハルは術式の調律が苦手だから、細かい舵取りは効かないはずだ。
 アサルトライフルをひっつかみ、障害物を身代わりに宙へと逃げる。ハルは振り子のようにベニヤ板に衝突した。受け身をとって立ち上がるところに、フルオートでペイント弾のシャワー。この状態のハルに対して遠距離攻撃はさほど効かないから、牽制にはならなかった。1m周囲ではハル以外の力がほとんど刀に食われてしまうからだ。距離をとりつつも、ハルの周囲でばらばらと勢いを失う弾を見て、吾朗はさすがに苦情を訴えた。
「なぁ、これなら銀弾使ってもいいんじゃねぇの?」
「予算は許可されてません」
 カイからの冷たい通信。舌打ちする暇もなく、津波のような衝撃波が辺りを凪ぎ払った。大股に踏みこんだハルが刀を払ったのだ。そのまま腰だめに力を溜め、構えたままで飛び込んでくる。
「おっと!」
 ぎゃりん! と金属音。妖刀・安綱の斬撃を、吾朗は避けもせずに銃身で受け流した。ハルは無言で再び打ちこもうと振り上げる。判断ミスだ、安綱の与える力は鬼斬りの怪力。まともに組み合えば、押し勝てただろうに。吾朗は躊躇なくアサルトを捨て、身頃からハンドガンを抜く。銀色の銃がひらめいた。
「零距離からなら喰らってくれるよな?!」
 軽快にしゃがみこみ、腹に銃口を突きつけて、思い切り引き金を引いた。肝臓に打撃を打ちこまれた状態になって、ハルがうめいてくずれおちる。さしもの安綱も、零距離の着弾衝撃まではチャラに出来ないらしい。普通ならはらわたを吹っ飛ばされて一も二もなく病院行きだろうから、そら恐ろしいバリアだ。よろけたハルを蹴り飛ばし、追い打って何発か威嚇する。カイからストップがかかった。
「吾朗さん! 何やってるんですか、実弾じゃないですか!」
「何やってるって、ノシてんだよ」
「まかり間違って生身のハルさんに命中したらどうするんです!」
「死なねーよ。まだ三分経ってないだろ」
「演習中止。ハルさん、大丈夫ですか?」
 ハルは唇を噛んで立ち上がった。ダメージからの復帰が速いのはさすがだ。抜き身の刀を手にしてうなだれたまま、トレーニングルームを出る。バックヤードにつくと、カイがすぐに駆けよる。論評が始まった。
「戦力的には五分のはず……ハルさん、どうして慌てて覚醒してしまったんですか」
「手っ取り早くカタを付けたほうが速いと思った」
 脊髄反射的な答えに、カイが顔を渋くする。対戦相手の吾朗としても、はっきり言って褒められたものじゃない戦いぶりだった。へらりと笑ってフォローする。
「……まぁ、屋内で銃を相手にすんのも辛いもんがあるし?」
「まさにそのケースを想定した演習でしょう? それに組み合ったんですから、力押しで勝てたはず」
「勝てる算段なんか……あったのか?」
 ハルは口ごもりつつカイに聞き返した。これには吾朗も呆れる。カイは天盤をはじき、いくつか占った。
「まず、先に覚醒しなければ、吾朗さんが薬を使うのも遅れたでしょうね。初めから距離をとれば実弾であっても安綱が防ぎますから、出方を見ることもできました。障害物を利用することもできますし、衝撃波だってあるのに」
「……すまなかった」
「実戦では僕か吾朗さんのどちらかがサポートに廻りますから、負けるということはないと思いますけれど」
 吾朗は反省会を無視してバックヤードのベンチに座り込んだ。ペイント弾仕様にしたアサルトを換装しなければならないのに、精油の副作用が徐々に身体を気だるくしていく。ハルの180秒ほどではないが、吾朗のブーストだって時間限定だ。過剰に動けばその反動が来る。カイが目ざとく気づいて隣に腰掛ける。
「吾朗さん、平気ですか?」
「平気なわけねーだろ……有り得ないくらい眠い」
「……俺が家まで送ってく」
 ハルが心配そうに申し出た。笑う元気すらもう残っちゃいない。カイがスマートフォンをなぞった。
「今日はこの後近所で頻発している通り魔事件について、天川さんより通達があるみたいなんですけど……」
「無理だ。眠すぎる」
「ですよね……とりあえず仮眠室へどうぞ。指示に関しては後で僕からご連絡します」
 カイの言動は普段よりややとげとげしい。先週の誕生会のことを怒っているのだろうか。ハルが肩を支えて、立ち上がらせてくれた。
「行くぞ。一人で歩けるよな」
 吾朗は脱力状態のまま、よろよろとハルについていった。

 ……仮眠室のベッドは狭いうえに固く寝苦しい。ベッドに倒れ込んだ後、付いてきたハルも構わずに眠りこんでしまった。演習ごときで香油を使ったから高揚状態が持続せず、虚脱するのも早かった。目覚めると、ハルはまだ仮眠室にいた。スツールに腰掛け、本を読んでいたようだ。
「起きたか」
「……ああ」
 きしむ身体を起こす。香油の効果で傷の自己回復力も高いが、疲労自体は残るのだ。忌々しい。ハルが伏し目がちにつぶやく。
「……さすが、強いな」
「え? ああ……当たり前だろ。お前さんの処刑人なんだから」
 軽口を叩く余裕くらいはあった。ハルはうなずいた。
「あんなにあっさり負けると思わなかった。俺に実戦経験が足りないからか」
「実戦経験もなにも……市街戦なら普通、銃持ってる相手とガチで渡りあったりしねーからな。まずは手榴弾か閃光弾。それからマシンガン。その後でようやく突入だよ」
「そうか」
「それに、実戦ならお前だって峰打ちなんかしねーだろ。あそこで斬ってたらキツかったと思うね。こっちも一応、マリア様の加護はあるんだが」
 冷静になって思い返すと、どちらも結局本気ではなかったのだ。そのあとの想いについて、吾朗は口にしない。安綱の反作用無効化は正直に言って厄介だった。零距離射撃でようやく打撃なみのダメージ。要するに、覚醒中の接近は厳禁だ。覚醒が切れるまで逃げ回り、普通の人間に堕したところを撃つ。それがセオリーだろう。
 しかし、吾朗が仕事を遂行するのは、ハルが使い物にならなくなった時……童子切安綱に己の精神を呑まれ、刀を振るうただそれだけの機械と化した時だ。その場合、安綱の解放限界が現在と同じ180秒でありつづける保証はない。ハルと刀は相性がいい。加護を受けた銀弾はさすがに喰らうだろうが、威力自体は計らないとまずい。天川に提出する報告書にはそう書くことにした。
「身体は辛いか」
 ハルが尋ねてくる。妙に真剣な様子がおかしい。吾朗は微笑んだ。
「何だ、心配してくれんのかよ? 王子様は優しいね……」
「当たり前だろう。お前は、俺にとって大事だ。正直、負けて安心した」
「イマイチ弱気だな。何かあるのか?」
 ハルはスツールに大きな身体を丸め、口ごもった。すぐに視線を戻して打ち明けてくる。
「最近、刀を握ってないと不安だ」
「……へえ」
「あんまり離れてると吐き気までしてくる」
「医者に言ったのか?」
 ハルは首を振って否定した。吾朗は考える。……理由はいろいろあるのだろうが、心理分析なんかしても仕方がない。初めのころ、ハルは刀を毛嫌いしていた。手入れしろと言われても拒否していたし、部屋に入っても忌まわしいものとして玄関に放置していた。
「俺もいずれおかしくなるんだろうか」
 ハルは淡々と尋ねる。否定も肯定も出来なかった。どうなるかなんて判るわけがない。身体症状がひどいようなら、呑まれている徴候であり危険だ。カイならば、占って気休めでも言ってやれたのだろうが。ただ、兵士が武器に愛着を持つというのは不思議ではない。戦場では常に携行するのが義務だし、いざという時に頼れる唯一のものでもある。吾朗は聞いてみた。
「不安になるにしては毎日持ち歩いてないじゃねーか」
「……一人でいるときが怖いんだ」
「誰かと一緒なら平気なんだな」
「そうだな。家にいる時は正直見たくもないくらいだ」
「単に寂しいだけなんじゃねーか? それ」
 ハルはきょとんと吾朗を見つめた。初めて会ってから五年近く経ったというのに、相変わらずどこか子どもっぽいから困る。茶化してごまかすことにする。
「ま、そういうことならなるべく一緒にいてやるよ。今日は何だっけ……送ってくれるんだろ?」
「ああ、お前が嫌でないなら」
「天川のオッサンに挨拶してきな。俺も今日は退勤する。流石に疲れたし……」
「了解した」
 ハルが仮眠室を出ていく。入れ違いにカイが入ってきた。軽い栗毛に端正な容姿。けれど珍しく仏頂面だ。小脇に抱えているのは血圧計と体温計、腕時計と書類ケース。吾朗はうんざりした。
「おいおい……何するつもりなんだよ?」
「バイタルチェックですよ」
 カイは愛想なく告げると、さばさばと書類に血圧、脈、体温を記入していく。そしてバインダーごと報告用紙を吾朗に突きつける。
「もう帰っていいですけど、ちゃんと期日までに提出してくださいよ」
「はいはい判った判った。ススキダ君はハルの誕生会を邪魔されて怒り心頭なんだよな」
「……」
 カイがじとっと吾朗を睨んだ。藪蛇をつついた気がする。
「今日は実弾を使用する許可なんか出てなかったですし、夏休み前の女子高生のことだって反省してないようですし……吾朗さん、ちょっとは自重してくださいよ。まったく大人げない」
「ああしないと危なかったし安綱があるんだから平気だ。女子高生の始末書は死ぬほど書いた。誕生会は……いい年した男が仲良しごっこしてもしょうがねーだろ? ……言い訳は以上」
「言い訳だと判ってはいるんですね」
「まぁな。キツかったけど負かしたおかげで今夜はハルとデートだ。邪魔すんなよ」
「……」
 カイの視線が絶対零度なみに冷ややかになった。吾朗は苦笑する。
「おいおい。それくらいジョークだって判らないのかよ?」
「変態性欲で横恋慕するのも個人の自由ですからね。それと連絡です。通り魔はハサミで通行人の服を無差別に切るとのこと。犯人は小柄な女性だそうですよ。成人男性まで被害にあってるそうですから、吾朗さんもお気を付けて。あちこちで恨みだけは買ってそうですし」
「カイはハルと違って冷たいんだな。吾朗ちゃんとしてはショックだぜ」
「ふざけるのもいい加減にしましょうね」
 カイがにこっと笑う。邪気がないように見える平和な笑顔が逆に怖い。あまり怒らせて、藁人形で呪いでもされたらさすがに効くかもしれない。ただでさえカイはその手の呪術に詳しい。びくついた吾朗の態度に気勢を削がれたようで、カイはようやく当たりをやわらげた。
「一応注意しておきますが、安綱所持状態で変なお店に行ったりしないでくださいよ」
「行かない行かない。そんな元気も今日は残ってないからな」
「信用しておきますからね。まったく……」
 呆れかえって荷物をまとめるカイに、吾朗は質問してみた。
「カイの占いは一刻程度の範囲なら必中なんだよな」
「ええ、まあ……そうです。コンピューターで暦の計算も大分速くなりましたしね」
「自分のこととか、俺たちの運命とかって占ってみたりするのか?」
「……僕の恋占いは一回十万取りますよ?」
 カイはにやりと笑って釘を刺した。すぐに真顔に戻って長々した解説が始まる。
「人の運命を正確に知るには、三週間ほど籠ったり禊したり眠り続けたりしなきゃならないので、面倒なんですよね……だからお代は十万円。戦闘状態なら雑多な不確定要素はある程度除去できるし、結果も単純にしてあるので必中になるのですけど」
「カイは占い師のくせに恋占いすらできねーのかよ」
 吾朗は長口上に辟易してくさした。カイは律儀に反論してくる。
「日々の吉凶くらいならさすがに出してますけどね。実際は瑞徴も凶徴も沢山ある中で確率計算していくわけですから、毎日なんてやってられないですよ。平安時代みたいにそれだけやってれば尊敬されるわけでもないし……ところで」
 立ち上がったカイがほくそ笑む。
「何か、未来を知りたいような不安でもあるんですか?」
「……いや、別に何でもないけどな」
「了解、心に留めておきます」
 カイは含みのある言い方をして、仮眠室から颯爽と出て行った。相変わらず、十九にしては食えない男だ。ハルとは大違いだ。

二話後半に続く