常世の昼の春物語(第一話)俺はホントは白いオオカミ

 俺の世界が広がったのは、十一歳のときだった。
 新しく神兵隊に入ってきたその子は、当時からまっこと綺麗な男だった。

1 不思議になつかしいあの音

 日ノ本の春は桜舞い散る典雅な季節である。ことに、常春殿地方ではヤマザクラやソメイヨシノの錦模様が爛漫と輝き、うすくれないの花弁が雲海のように地を覆い尽くしていた。浮かれ心をも刺激するそんな春の盛り、櫻庭詠さくらば・よみは修行も忘れて尾を垂直に立て、親戚に連れられてきた新しい仲間を興味深げに見ていた。

 親戚という叔父は白狼亜種、その傍らで控えているのは、同じく白狼亜種の美しい男児だった。二重の目元に長く影をつくる睫毛、少し曇りがちの大きな黒目、ふっくらした紅い唇。黒い艶やかな髪を素朴に切りそろえ、悲壮感すら漂わせる沈着な面持ちだ。詠が目も冴えるような精悍な顔立ちなら、その男の子は見ているだけでビャクダンの香りまでも立ち上るかような、品と色気があった。だが、同じ白狼亜種であり、三角の白い狼耳と尾はつやつやして立派だった。詠は話をするのが待ち遠しかった。

「詠、いじめるんじゃないぞ」

 師匠である神兵隊剣隊長・綿貫才一が詠の後ろ頭を小突く。彼の子息であり、二歳年上の先輩、洋一は気にもせず一心不乱に素振りを続けていた。新顔の少年はまだ声変わりのきていない賢そうなボーイソプラノで言った。

祈月清矢きげつ・せいやです。本日からお世話になります」
「草笛さんも見学していかれますか?」
「そうですな、初回ですし、最後まで見ていこうと思います」
「洋一! 草笛さんのために椅子でも持ってこい。ほかは二人組で立ち会い!」

 詠は自分も何か言いつけられるかと師匠を見やった。神兵隊は常春殿の職員の息子や、大元の大社衆などから男児を集め、訓練している。櫻庭詠は常春殿術師で、大社神官である年の離れた兄がいたために、幼いころからこうして習い事感覚で剣術を修行していた。術の修行よりも木剣を握ることを好んだ詠は、何とか年上の連中に勝とうと努力していたが、哀しいことに幼年時代における年齢のアドバンテージは大きく、その努力が実ることは少なかった。

「詠、剣の握り方から教えてやれ!」

 師匠の命が飛ぶ。清矢と名乗ったその男子の元に向かうとき、詠は疑問に思っていた。はたしてこんな臆病そうな子が敵と戦えるんだろうか。

「えっと、俺の剣使う?」

 話しかけると、清矢はその潤いのある瞳でじっと詠を見つめた。曇ったようなその黒目は助けてと訴えているように見えた。草笛と名乗った叔父は清矢を叱咤した。

「いきなり振り回すなよ。誰にも怪我をさせるな。まずは扱いを覚えるんだ」
「はい、叔父上」

 詠はごくりと唾を飲んだ。こんなに行儀のいい大人しい男子は、それまでの詠の世界にはいなかったからだ。詠はおずおずと剣を渡し、ぶっきらぼうに教え始めた。

「清矢くんちってどんな家?」
祈月きげつんち」
「それって『輝ける太陽の宮』の家?」
「そうだよ。俺、耀ようの孫」
「すげー! ホントに? 櫻庭の家も遠い親戚なんだぜ、桜花様って巫女、知ってるか? 俺たち、その人の末裔。嘉徳親王の妹さんだったんだって」
「そうなのか? 案外近くに妙な親戚がいるもんだな」

 詠は清矢があこがれの『輝ける太陽の宮』の孫だと知って喜んだ。

 その人は日ノ本を軍事視察した『嘉徳親王』、要するに王子様の子孫で、貴族の位を降りられる際に神兵隊に入って、不思議な技をたくさん使い、表に裏に世の中を治めたらしい。つまり、帝のご命令に従って魔封石のある四神殿を回って悪さをした神官や術師なんかを、討伐していたらしい。本物の白狼になれたなんていう嘘かホントかわからない話も多かったが、この神兵隊に所属した特殊兵だったことは確かだ。詠ははじめて分かり合える人間を得たと思い、宮様の武勇伝をわがことのように語った。

「『輝ける太陽の宮』はさ、すっげー女にモテたんだって! 洛山のほうには子孫って言ってるやつもいるらしいよ」
「えー? うちには『輝ける太陽の宮』の妻がいるぜ。浮気の話については厳しいから、それもホントなのかもな」
「『輝ける太陽の宮』の奥さんだったらスゲー美人だったんだろうな~!」
「はは。じゃあ、さくらに会ってみる? 二十年前はめっちゃ美人だったんじゃねーかな?」
「マジで!? 会ってみる! 俺、『輝ける太陽の宮』みたいになりたい!」

 清矢自身はあまり宮様の話には興味がないようだったが、その生涯の最期にさしかかると瞳に憂色がさした。「渚村で村長に殺された」という説は、否定された。今までの盛り上がりは一変し、清矢は女の子のような顔立ちで詠をきつくにらんだ。

「違うよ、日の輝巫女の命令で常春殿刺客に始末されたんだ、口封じのために」

 各人は否定まではしないものの、沈黙していた。詠はむっとして反論した。

「嘘に決まってる、当時の村長に殺されたんだ」
「風祭の家が!? それだけはない! お前ら、銀樹ぎんじゅに首刈られたいのか?」
「村長が事件を機に変わってるだろ、それが証だって神兵隊では言ってる」
「確かにそうだが、それは風聞を恐れてじゃないか? もちろん次の村長の恵波も犯人じゃないぞ。恵波は祈月の婚家だし、どっちもまだ祈月を支えてる。常春殿神兵隊は、己が罪を隠して、とんだ間違いを次代に教えてるんだな」

 清矢は険しい顔になって、服の中からハーモニカをぞろりと出した。それは鎖で首に下げられて、服の中にしまってあった。神兵隊の大人たちはとっさに剣をかまえて彼を囲む。清矢を連れて来ていた白狼亜種の男……商家の大店、草笛総司は険しい顔で満座を睨んだ。

「ふむ。やはり常春殿は信用ならぬな。この意味ぐらいはわかるか。では、ついでに間違いも訂正してもらう。清矢、とっておきを吹いてやれ!」

 美しいその男児は命じられるままに唇を吹き口にすべらせた。その単純な音律は詠たちを捕らえ、その場に金縛りにした。それだけでなく、詠は身体じゅうをかきむしるくらいの強い衝動に襲われた。

「ホモ-ファシウス、ラボで作られしけだものどもよ、ヒトに植えつけられる前の、原初の姿がこれだ!」

 総司の号令と共に、どこか懐かしさすら感じる呼び声が、ハーモニカから放たれる。詠、洋一、その他白狼亜種は、耳をふさぐこともかなわず、全員が狼の姿になってしまった。草笛総司も懐から横笛を出して合奏する。狼族変化コードとは別の下降音型がしつこく繰り返され、あっという間に狼たちは馴化がなされ、詠など尾を盛んに振って清矢に近づくしまつだ。祈月清矢、宮さまの子孫はヒトの似姿を保ったまま見くだした。

 その姿は、まるで酷薄な王子様。詠と清矢の物語は、最悪な形から始まった。

2 白狼村こと、渚村の言い分

 大騒ぎになったが、数十分すると術は解けた。詠は服を抜け出してハダカになってしまったので恥ずかしかったし、草笛総司と祈月清矢はとっくに帰ってしまっていた。黒裳衆の小川憲彦は、いきり立つ若者たちを抑えて言った。

「渚村に喧嘩を売ったということだ。祈月も草笛もそれだけは許せないんだろう。これに懲りたら、よくわからない風説を広めるのはやめることだ」

 詠は家に帰っても、清矢たちの弾いた下降音型が耳に残って仕方なかった。おかしな話だが、清矢があの時、頭を撫でてくれればよかったのにと思ってしまう。俺は尾を振ったんだ。新しいやつと仲良くなりたくて。そう言うと、母は血相を変えた。

「あんた、草笛の音楽魔術でおかしくなったんじゃないの!? そういや、あの家の雫さんは祈月に嫁いでた。村のことなんかどうでもいい、ひとこと言ってやらなくちゃだね」

 母はちゃきちゃきした勇ましい女だったから、汐満の町にある草笛系列の呉服屋に詠を連れて行った。清矢の母御と思しき草笛雫の名を出しても、店員は取り合わない。母は仕方なく近くの駄菓子屋を兼ねている土産物屋に入って、草笛の屋敷の住所を聞いた。白狼の青少年たちがたむろするその店先のベンチには、ひとりカラカラと風もないのに風車を回す少年がいた。彼は詠たちには軽妙に用向きを聞いた。

「御内儀、草笛の屋敷の住所なんて、どうして必要なんだい?」

 母が簡単にあらましを話すと、彼の態度は一変した。

「っていうことはお前らが俺ん家が耀サマを殺したなんて言いやがった奴らか! 帰んな、帰んな! このご時世、草笛の屋敷の場所なんて聞きまわるやつは間者だぁな!」

 風祭銀樹かざまつり・ぎんじゅ……前村長の家の息子は前髪を長く伸ばし、片目隠れの食えなさそうな少年だ。彼の取り巻きたちはどの少年も白狼の耳と尾を持っている。取り囲まれて、勝気な母は瞬時に怒りのボルテージを上げ、少年に凄んだ。

「あたしたちは神兵隊からそう言い聞かされてただけだよ! 『輝ける太陽の宮』は当時の村長が殺したって!」
「はっ、よくもこの風祭銀樹サマの前でそんな口が聞けたもんだ! 神兵隊ってのはやっぱり信用ならねぇな、今もまだ『日の輝巫女』を飼ってるくらいだからな!」
「『日の輝巫女』は飼ってるんじゃねーよ! 倒す機を窺ってるだけだ!」

 詠は売り言葉に買い言葉で言い切った。神兵隊の少年たちは百年を経過したその人型の魔物を倒すために、日々鍛錬している。この時ほど、剣があればこんな奴ら、と悔しかったことはなかった。詠の強がりを鼻で笑って、取り巻きとともに笑う。

「お前、今後汐満の町に顔出せると思うなよ。このことは草笛にも祈月にも報告すっからな!」

 年かさの少年は詠を睨んでそう言った。店番の婆さんが出てきて、もめごとを起こすならお引き取りくださいとぞんざいに言った。母は詠の手を強く握りしめて店から出て行った。

 その日の夕食で母は父に文句を言ったが、父も兄も「本家では村長の仕業だとは教えてない」と風祭たちのほうの味方をした。詠はイラだちながらも、夜中一人布団で清矢のことを思いだした。

 最初は大人しそうな、行儀のよさそうなやつだと思った。剣を教えてやったら、ありがとうってわざわざ言った。神兵隊に入るっていうけど、こんな弱そうなやつと一緒に『日の輝巫女』みたいな魔物と戦えるのかなって思った。でも、『輝ける太陽の宮』だった耀サマの孫だって言う。村のことを悪く言われたら一歩も引かなかった。じゃあ、常春殿は俺にウソを教えてるのか?

 詠の生活圏は大社と神兵隊しかなかったし、今日は清矢とは話ができなかった。何としても真相を知りたい。けれど、翌日もその翌日も、神兵隊の練習に清矢はやってこなかった。

 裏でどういう決め事になったのだか、清矢は翌週の日曜日にふたたび現れた。今回彼を連れて来たのは、五十くらいの女だった。彼女も白狼亜種で、白地に桜色の流水紋の入った高そうな着物を着ていた。後ろには何人かの女のひとが控えており、風呂敷包みを持っていた。みな、同じくらいの年ごろだ。

「常春殿神兵隊にモノ申しに来たよ! あたしは祈月さくら。耀の妻で、清矢のばあちゃんだ!」

 黒裳衆の小川憲彦があわてて応対した。神兵隊長の綿貫才一師匠は、こわごわと遠巻きにしているだけだった。

「さくらさん、久しぶり。その、物申すと言うのは……」
「神兵隊は相も変わらず酷いじゃないか! 言うに事欠いて、あの人を殺したのが風祭の家だなんて。見殺しにしたのは神兵隊、あんたたちだよ!」

 そう言って、さくらは風呂敷包みを開いた。中に入っていたのは、おにぎりや卵焼き、それに煮汁が染みて美味しそうな芋の煮つけだった。そして不思議なことを問いかけた。

「あんたら、これを食べれるかい?」
「差し入れなら、ありがたくいただくが……」
「風祭を犯人扱いしているようなやつらへの差し入れだよ。毒でも入ってるんじゃないかって、疑うのが普通じゃないのかね。しかも、時勢は今や遠山サマと鷲津軍の一騎打ちってところだ。あんたらは、源蔵の味方の遠山サマよりも、鷲津につくってことだね。謝らないなら、戦争だ。疑いあうって哀しいことだよ」

 とうとう、綿貫隊長が頭を垂れた。

「申し訳ございません。『輝ける太陽の宮』刺殺については、当時の風評を信じてしまいました……常春殿が疑われることを恐れて、村に責任を押し付けていたのは私です」
「ふん。あんた、まだまだ若造だね。小川さん、どうしてアンタが隊長やってないんだ。この食べ物の中に毒は入ってないよ。村を疑ってるなら、この差し入れも食べられない。そういうことだろうが!」

 一喝したさくらの後ろからもう少し若手の女性が歩み出てきて、頭を下げる。

「私は風祭の家の縁者です。渚村ではないけれど、さくら様に言われてともに抗議しに来ました」
「清矢は小川さんが教えとくれ。源蔵の剣を預かるぐらいはできないと、このご時世不安なんだ。ほかのガキどもは……まぁ、風祭の家が犯人だなんてウソを信じてたんだ。一瞬狼に変わっちまったくらい、天罰だと思いな」

 ばあさんの強引な意見が通り、清矢は小川憲彦に連れ去られて行ってしまった。若手はみなあっけにとられていた。とくに綿貫隊長の息子、洋一は身の置き所がなさそうである。詠もその日の訓練はずっと落ち着かずに、ひたすらに素振りや走り込みをして過ごした。誰かと打ち合う気にはならなかった。午前が過ぎ、渚村からの差し入れを食べようと言う段になって、汗だくの清矢が現れたとき、詠は一直線で走って行って自己紹介した。

「おれ、櫻庭詠さくらば・よみ! 祈月清矢くんだよな。あの……一緒にごはん食べよう!」
「銀樹に脅されたって聞いてる。大丈夫だったか?」
「あの……そんなのもういい。あのさ。俺、またお前のハーモニカ聞きたい。狼に変わるやつじゃなくて、その後のチャンチャカチャンってやつ、弾いてくれよ!」

 清矢は難しい顔で首を左右に振った。

「アレはダメだ。馴化の曲。俺のこと、変に好きになっちまってるんじゃないの? 猛獣を無理やり馴らす曲だから、もう聞かせられない」
「どうしてダメなんだよ?」
「鷹もあれで調教してるんだよ。そのせいで白帚しらぼうきは普通の鷹匠には扱えない。思うままに操れるけど、他の人にはかえって狂暴になっちゃうんだ」
「あれは俺には効かなかったぞ、狼族限定なのか?」

 犬亜種の市村文吾が身を乗り出してきた。清矢はうなずく。

白燈光はくとうこう宮家の必殺技。ビーストコードの音曲だ。草笛は初代からずっと付き従ってる雅楽官。二つの家の末裔の俺なら、できて当たり前の芸当だ」
「清矢くんって、すげー……」

 詠は単純で幼かったので素直に感激してしまった。清矢はわしわしと詠の獣耳を撫でた。

「ごめんな、怖かったろ。詠くんは悪くねーよ。そう信じさせた大人たちが悪い」

 市村文吾も同意する。彼の家は犬亜種として、この狼亜種が取り仕切る神兵隊について今まで思うところがあったのだろう。

「俺たちはずっと『輝ける太陽の宮』については村の仕業で殺されたって言われてきた。やっぱ、違うんだろうな。俺も犬村というか……初瀬村の親戚に聞いたんだよ。やっぱり、当時の村長のせいではないって」
「諏訪大社末社の菊池神社、犬村もとい初瀬村、白狼村っつか渚村、汐満の街、結城氏、森戸氏、久緒氏、安部神社、天河家、利根川家とか猫村……どの人たちもたぶん、渚村の村長がやったなんて言わないだろうな」

 清矢はすらすらと詠の聞いたことしかない地名を挙げて指折り数えた。そして詠をじっと見据える。詠には、清矢がほんとうに広い世界を知っている都会の垢ぬけた先輩のように見えた。

「詠くん、風祭とかには俺が話しておいてやる。俺が音曲で獣に変えちまったことは謝るから、それでチャラってことになんねーかな?」
「うん、まぁいいぜ。そんでさ……」
「どした」

 詠は二ッと笑って言った。

「俺のことは『ヨミ』でいーよ、清矢くん!」
「……わかったよ、ヨミ」

 清矢の甘い口調に詠も照れてしまい、もっともっとじゃれつきたくなった。詠は提案する。

「なあなあ、清矢くん。練習終わったら大社のやつらにも話を聞いてみないか? 間違ってるなら説得、またしなきゃなんねーだろ?」
「いいよ。じゃあばーちゃんには言っとくから」

 清矢はそう言って額の汗をぬぐった。詠はさっそくの二人での外出に胸を高鳴らせていた。

3 『日の輝巫女』との出会い

 石畳の参道を抜けていく。歩道には松の木がきれいに並んで植樹され、宿や土産物屋もにぎわっていた。清矢はそれらをきょろきょろ眺めながら、詠の後を行儀よくついてくる。詠は張り切って、せんべい屋や蕎麦屋を案内した。清矢はにやりと笑う。

「それで? 詠は俺におごってくれねーの?」
「カネ持ってねー……清矢ん家のほうが金持ちだって聞いたけど?」
「残念。金持ちなのは母さんの家のほう。祈月の家は貧乏なの。今は戦の前で物入りだし」

 大社前の旧日本軍海軍基地は今、清矢の父親などの遠山兵がピリピリしているというが、大社所属の神兵隊にとってはまだ縁の薄い話であった。詠は一応、聞いてみた。

「どうする? 家に帰れば何かあると思うけど……」
「さっきばーちゃんの料理食べたばっかりだろ。俺は平気だよ。それにちょっとくらいなら小遣い持ってるから、帰りに何か買おうぜ」
「へへっ。俺ね、せんべいがいい。甘じょっぱくて美味いんだ」
「えー? 俺は甘酒がいいな。せんべいじゃ喉乾きっぱなしじゃん」

 和気あいあいと話しながら行く。宿の者などは、『輝ける太陽の宮』の最期については「わからない」とごまかしたり、菊池神社のほうが詳しいなどと逃げを打っていた。成果はないまま、いよいよ大社の大鳥居から緑豊かな社殿内へと侵入する。参拝客はいるものの、休日でもないためにその姿はまばらだ。普段詠たちは表通りを逸れてはいけないと厳重に注意されていた。

 本殿に上がる前に、祓神の末社に祈りをささげていると、猫族の男が話しかけてきた。金に染めた髪を肩に伸ばした風貌で、かなり柔和な風貌だ。

「あの、君たち? 見るところ地元の白狼族だね。私は観光客で、渚村か洛山に行きたいんだけど、連れてってくれないかな」

 清矢はつっけんどんに返した。

「ガイドなら専用のを頼んだらどうだ。何で子供に声をかける」
「ふうん。戦が近いから親御さんも警戒しているってわけか。これは失礼」

 男はそう言いながらも、少し離れたところで清矢たちを見守っていた。清矢は詠の手を引き、鎮守の森奥へと誘う。

「……撒いちまおうぜ。あいつ、たぶん鷲津の間者だよ。」
「そういや、風祭の人間もそんなこと言ってた。清矢くん、どうする?」
「渚村は俺の父の本拠だし、洛山はうちにいる武将の関根さんの実家があるところだ。相変わらず、鷲津軍閥は子供に手を出すのが好きだな……行こう。ついてくるようならますます怪しいやつだが」

 詠はちらりと普段両親が口うるさく言っている注意を思い浮かべた。参道から外れると『日の輝巫女』から逃げられないぞと。その魔物は、人の姿を借り百年生きている壮年の女で、三十二のその姿から老けることはないという。本人は大社のご利益で不老不死を得たと喧伝している。巫女服に身を包んだ大蛇の化身で、海道守護として派遣された久緒氏の先代を食い殺したとのうわさだ。

 しかし、そんな伝説があるものの、詠はまだ実物を見たことなどなく、たしかに鷲津の間者に付け狙われるほうがやっかいな気がした。清矢の少し冷たい手をきゅっと握り返し、自分から道をはずれて、駆けていく。森の匂いと静けさが、しん、と肌に染み込んでくる。茂る木々の枝、ちょうど脚立で届く範囲には、赤い組みひもで詔を書いた絵馬が鈴なりにくくりつけてあり、カラカラと鳴った。最終的には本堂前につながるはずだ。

 男はしつこく追ってはこなかった。ほっとしたのもつかの間、目の前にはおかっぱ姿の女が唐傘を持ってひとり立っていた。ゆらりと大柄で、目鼻立ちはくっきりと整っている。口元にたたえた微笑のおかげで威圧感はなかった。しゃらり、と吉祥結びの髪飾りの珠が鳴る。白い三角の獣耳と、豊かな尾をもつ彼女は中腰になって詠たちを見た。

「あんたら、どしたん。こないなところまで子供ふたりでやってきて、珍しいねぇ……まあまあ、白狼やわ」
「あんたは、大社の巫女さんか? 鷲津軍閥の間者が入ってる。子供にまで声をかけてるぞ。大社はそっち寄りなのか? 違うなら、注意してほしいが……」

 清矢は臆することなく、きびきびと上から言いつけた。女は細かいことを聞かずに、手持ちの桃色の唐笠をばっと広げると、詠たちを手招きした。詠はまずい気がしたが、女の目の前で魔物の名前を名指しすることを恐れてしまい、清矢がその傍に歩いていくのを止められなかった。

「鷲津はむかし、湖水神社で戦があったときからの私らの敵よ。その時も叛乱軍に着いておったらしいわ。そう考えるとずいぶん古くからの氏族ね……しぶといこと」
「そうなのか。ともかく子供にまで手を出すというのはおかしいぞ」
「なら、一緒に行く? うちが送ってやるわ」

 ――『日の輝巫女』は誰かが招いたり先導しないと大社から出られないらしい。そんな噂も脳裏によみがえってきた。詠は清矢の服をひっぱって止めた。

「清矢くん、奥殿まで行こうぜ。客に紛れちまえばわからねーよ。そっちなら、『輝ける太陽の宮』のことに詳しい神官もいるかもしれないし」
「ふふ。『輝ける太陽の宮』についてはうちが詳しいよ」

 女が含み笑いをしたので、詠はますます怪しいと踏んだ。しかし、この女が噂どおりの魔物なら、『輝ける太陽の宮』こと祈月耀について、どう答えるだろう? 好奇心がうずき、詠はそれを問うてみた。女はけたたましくけらけらと笑った。

「耀なんぞ、村に裏切られて死によったわ。大社には逆らわんほうが身のためやで」
「何を……そんなのは嘘だ! 風祭も恵波も無実だ。俺は知ってる!」
「ふうん……風祭に恵波ねぇ。やけに村に詳しいけど、あんた、祈月の縁者やね? 年ごろ見ると……夜空の弟か!」
「夜空を知ってるのか? お前こそいったい……!」

 清矢がそう驚きかけた瞬間、詠は強く清矢の肩を引っ張った。清矢は後ろから引き倒され、尻もちをつく。どうして、と彼が問いかけた瞬間に、詠は身代わりに女に抱きしめられていた。女にしては物凄い力だった。豊かな胸がやわらかく迎えるが、寒々しい気持ちしか起こらない。くすくすとはっきりした忍び笑いが耳に届く。そのうち、腰までぎゅっと強く何かに巻き付かれた。清矢がひゅっと息をのむ。女は、下半身が白蛇に転じていた!

 うねうねと尾まで続く太い身体が縄のように食い込んでくる。詠は背中を抱かれ、ちろりと頬を舐められた。覗き込む瞳は、金色に光り瞳孔は縦に割れている。肉に飲みこまれるかのような抱擁。巫女と大蛇、聖と邪の交錯するその姿は、まさに百年を生きると語り継がれるにふさわしい魔物だった。人里離れたところに出てくる、夜を飛び交い地を這う異形などとは格が違う。

「嬉しいわぁ。人を食するのも久しぶり……貢物があるから絶えて飢えずとは言ってもねぇ。白燈光宮家の子供なんて一番の獲物やわ。あんたは前菜にしたげるから、さあ大人しくしとき……」

 二枚に別れる細長い舌で詠の顔を確かめながら、『日の輝巫女』はそう言った。喰らう前の絶望まで贄にしようとの肚だろう。詠は涙がにじみながらも、力強く清矢を叱咤した。

「清矢くんは逃げろ!」
「……詠! どこまでだって俺と一緒だ!」

 清矢はそう言うと、懐からさっと鎖でつながれたハーモニカを出した。そして唇にさっと滑らせる。以前聞いたあの音律が耳から脳を強く揺さぶった。熱い何かが身体じゅうを駆け巡る。血まで沸騰しそうな気分だ。体躯が縮み、狼へと変じた詠は何倍もの膂力で『日の輝巫女』の胴体を蹴りとばし、ぐあっと肩口に噛みついた。

「け、けだもの! なんやお前は、何をするんよ!」

 『日の輝巫女』が悲鳴を上げ、詠は再度、喉笛に喰らいつく。硬い健を噛み破り、犬歯を食い込ませる。前脚でガツッと顔面をえぐろうとすると、清矢がどこか奇妙な下降音型を弾きだした。それはみやびやかな響きではあったが、しつこく繰り返されるうちに詠はそのふところに帰りたくてたまらなくなった。食らいついた喉笛を離して、後ろ脚を全力で蹴り出し、緩んだ拘束から抜け出す。先んじて逃げ出した清矢の背中を一心に追う。

 身体は軽いのに、何倍もの力が湧いてくる。
 服なんか、靴なんか邪魔だ。生まれたままの身軽な姿で、のびのびと全身が躍動する。詠はこの瞬間、誰よりも自由だった。
 尾も獣耳も何倍も鋭く全情報をキャッチする。人だったころよりも濃密で喜びに満ちた時間が流れる。毛穴ひとつひとつに開放された喜びが満ちる。帰れば褒美までもらえる。

 続けて清矢ががなりたてた歌は、詠も詞を知っていた。魔物避けのまじないとして父親から教えられたもので、訴えかけるような平板な節がついている。『日の輝巫女』は喉笛を食いちぎられ、耳をふさいで苦しんだ。駆ける、駆ける、駆ける! 参道に戻ると、白狼の出現に客人たちは騒然となった。清矢は四つ足になってしまった詠を抱きかかえて、害はない、心配しないで! と叫ぶ。そして最初の曲を最後の小節から逆廻ししたものをハーモニカで奏でた。詠ははたして、もとの小僧の姿に逆戻りしてしまった。服からは抜け出してしまったから、当然全裸である。詠は泡を食ってしゃがみこんだ。

「せ、清矢くんっ、俺ハダカ……! 戻して! 戻してってば!」
「だいじょぶ、詠。俺の服貸してやるよ……ありがと。偉かったな」

 清矢は優しく言ってわしわしと獣耳をなでた。その表情は、心底ほっとして泣き出しそうにも見えた。大社衆が血相変えて駆けてくる。

4 まっこと綺麗な男の子

 大社で借りた小袖を着て、清矢の着ていた上着を羽織り、詠は草笛の屋敷まで連れていかれた。迎えに来た祈月さくらはがっつりと清矢を叱り、詠まで一緒に潮満の街まで連れ帰った。父親が帰ったら二人そろって説教だと言う。ピアノと二段ベッドと本棚が鎮座する子供部屋につれていかれると、同い年くらいの白狼亜種の男の子からの叱責があった。

「清矢、お前何やってるんだよ。『日の輝巫女』に喧嘩売るなんて……! 弱っちいくせにふざけんな!」
「ごめん広大。俺が浅はかだった」
「そんなんで、次期当主ヅラたぁ笑わせる。ったく、余計なことに首突っ込むなよ。お前を神兵隊に預けんのはこんどの戦のための調略なの。ちゃんと源蔵さまの狙い、分かってんのかよ……」

 広大、という名のその子は、清矢の従弟らしかった。彼のほうも詠からすればあまり強そうには見えなかったのだが、清矢は反論せずにうなだれた。

「そだな、俺のせいで、詠は襲われちまった……『日の輝巫女』は魔物だって知ってたのに。詠ごめんな」

 清矢はそうつぶやいて詠の頭をワシワシと撫でた。詠は待ち構えていたように清矢の胸に顔を埋めた。清矢に可愛がられることがなんだか嬉しくて仕方がない。尾を思いきりブンブン振って、清矢のすべすべしたほっぺたに自分のを擦り合わせる。舌まで出しちゃおうかと思うがそれだけ我慢する。清矢は慣れた風情でトントンと詠の背を叩く。そして手のひらでごしごし雑に撫でてくれる。思いきり身体中で甘えて、ぎゅっと力一杯抱きついて、すんすんと匂いを嗅いで、まだ半分狼だと言ってもよい具合だった。清矢が呆れて笑う。

「よしよし、怖かったな……俺が助かったのも詠のおかげだよ」
「俺は清矢くんの犬だかんな! この技使ってさ、二人でいっぱい魔物倒そうぜ」

 尾をちぎれんばかりに振り、詠は全力で清矢にのしかかる。清矢は嫌な顔ひとつせずに抱き返して、獣耳を掻いてくれた。広大はうろんな顔をする。

「何でい、男同士で気持ち悪ィ……詠、それ分かってんのか。馴化の曲のせいだぞ」
「分かってるけど……でも俺、清矢くん好き!」
「詠、ありがとな」

 清矢はおでこをこつんとぶつからせると、詠から離れてピアノの前に座った。楽譜を開いて、左手と右手がバラバラに動くなんだか古い曲を弾き始める。

「なんだ? それも俺にかける魔法?」
「ちげー。インベンションだよ。今日の分の練習すんの。詠は遊んでていいよ」

 詠はなつっこく清矢の背中にまとわりつき、練習を邪魔した。手をとめて微笑む清矢にもっともっと親愛を示したかった。清矢は神妙な顔つきで言う。

「詠がこんなになっちゃったのは俺のせいだ。一生かけて責任取るからな」
「そんなのどーでもいいよ、清矢くんは『輝ける太陽の宮』の孫なんだからさ!」
「それはもう一人いるんだよ。あっ、でも、そのこと神兵隊にはまだ言うなよ!」
「うん。あのな、あのな。清矢くん。俺の友達になってくれる?」

 清矢は詠の手の甲をやさしく包み、美しい顔を和らげてこくりとうなずいた。

「うん。俺も詠のことずっと好きだよ」

 ……詠の世界が広がったのは、十一歳のときだった。

 百年を生きる魔物との対決や、魔法を使う気になったことや、家宝を持ち逃げした清矢の兄を追って、海外の大学まで行ったこと。冒険はすべてこの一連の事件から始まったが、後に詠が語る思い出はただ一つに集約される。

 いきなり現れた不思議な音曲を操る男の子……彼の笑みはまことに、初桜がほころぶようであったと。

(2-1につづく)